2011年11月3日木曜日

66番雲辺寺

歩き遍路でルート的に雲辺寺に上がるには徳島県の県境から登ります。七田または境目峠から曼陀トンネルを抜け林道を登るのと、佐野の雲辺寺口から登る、このルートは途中曼陀トンネルからの林道ルートと合流しますが、その中で通常、一番多く利用されているルートが雲辺寺口からのルートです。このルートからだと、雲辺寺口から、約二時間でお寺に着くことが出来ます。バス遍路は大野原の別格16番萩原寺から3キロ先の雲辺寺ロープウエイで上がります。麓から山頂駅までは7~8分で着きます。瀬戸内海がきれいに見渡せます。車遍路は、池田方面からは、192号の久保から右折れし268号をクネクネと上がってきて、雲辺寺の私道に入ります。約30分で駐車場に着きます。そこから10分、杉木立の中を歩くとお寺に着きます。



 
ここまで来るのに、佐野雲辺寺口から約1時間半かかります。最後の坂道を上がると左側に車遍路の駐車場が見えます。
 
山を登りきると、こんなに素晴らしい、杉木立の中をお寺まで歩かせてくれます。霊気に触れ雲辺寺に登ってきた幸せを感じ、疲れが飛んでしまいます。

参道をしばらく行くと元、山門跡があります。今年2月くらいまではこの場所に山門がありました(下の写真)が古くなったからか解体されていました。復元されるのでしょうか。大師堂の登り階段の所に新しく山門が作られています。上の方に新しくなった本堂が見えてきます。
急坂を上がると、左側に「水堂」があります。手をかざすと自動で冷たいおいしい水が出てきます。
山の上では、水は大変貴重です。その先、右側に新築なった本堂があります
本堂の前には、各お守りの授与所があります。その向こう側に「おたのみなす」の腰かけがあります。「親の意見となすびの花は・・・・・」の説明があり願いをかけて腰をかけて下さいとあります。
「なす守り」はお守り授与所にあります。
 納経所の横の坂を上がっていくと、大師堂があります。この寺も、前の大きな建物は灯籠堂で、お大師さまは後ろの御廟においでます。
 大師堂の後ろは広場があり、そこには、マニ車(お経が彫ってあり手で廻すとお経を一巻読んだ功徳があると言われます。また手で回しながら願い事をお唱えします)があります。
 サヌカイトもあります。叩くときれいな音がします。この広場には、観音さまもお不動さまもおいでます。
その先の階段を降りるとこんな立派な山門が建築中でした。もう出来上がっているでしょうか。

 大興寺9.2キロの石標の向こうに、大師乳イチョウの木があります。大興寺までの下りの山道は約4キロです。
乳銀杏(いちょう)子供が生まれても母乳が出ない人のために弘法大師が植えられたという銀杏。木の幹を削り煎じて飲むと乳が出るようになった、とのいわれから大師乳銀杏と言われる。
 遍路道の上を五百羅漢さんの石像を通り、ロープウエイの乗り場方向に行き、直進すると毘沙門天展望館があります。大師が入唐の際、初めて土を踏んだ赤岸鎮福建省の五百羅漢院の羅漢像を模して刻んだものです。山頂駅から境内にいたるあちこちに安置されています。
参道途中から見る雲辺寺山の頂上においでる、毘沙門天さまです。日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ばれます。密教では十二天の一尊で北方を守護するとされます。また日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、特に勝負事にご利益があると信仰されています。
ロープウエイの山頂駅の方に歩いていくとこんな記念碑がありました。
山頂駅と瀬戸内海がパノラマできれいに見えます。
 ロープウエイで上がって山頂駅を出るとおおきな、おむかえ大師 がお出迎えしてくれます。
その下を見ると香川県と徳島県の県境の表示板があります。正確には山頂駅は香川県、お寺は徳島県に位置します。
お迎え大師の左、五百羅漢さんの石像のある道を降りていき、乳イチョウの所から長曾我部元親ではありませんが、讃岐平野に向かって山を降りていきます。大興寺まで約三時間です。


裏山問答・・天正年間(157392)、雲辺寺山に登った長宗我部元親の軍勢は眼下に展開する讃岐や伊予の山並み、村里を望んで四国統一の野望をたぎらせた。元親は燃える心を旧知であった住職の俊崇坊に四国統一の野望を披露した。これに対して俊崇坊は「あなたは土佐一国の主の器であって、それが四国の主になろうというのは茶釜の蓋で水桶の蓋をしようとするようなものだ、兵を率いて土佐に帰りおのが領民を愛するがよかろう」と鋭く諫めた。更に住職は「戦うだけが武士ではない、義をもって立ってこそ武士である」と追い打ちをかけることも忘れなかった。迷った元親は切れ者の家臣谷忠澄に相談した。忠澄は「仏法のことは僧に聞け、兵法は武士(もののふ)こそ」と意見を具申、元親の軍勢はさっそうと讃岐の山河目指して下って行った。四国統一の戦火が拡大し、雲辺寺も兵火にかかった。天正13年(1585)春、ついに四国を統一した。しかし同年6月、豊臣秀吉が四国征伐の軍を起こして、阿波・讃岐・伊予の三方から進撃。同年8月、元親は四国統一2ヶ月で降伏し結局、俊崇坊の言葉の通り土佐一国のみ安堵された。時の住職は因果応報の理を説いたのです。



0 件のコメント:

コメントを投稿