25~26日は関西5期の皆様と久百々まで歩いてきました。風光明媚な入野海岸から歩き始め、一日目は四万十大橋手前のスリーエフまで、二日目は伊豆田トンネルを抜けて、真念庵を訪れ、その後、久百々まで歩きます。爽やかな秋晴れに恵まれ、楽しい歩きでした。
須崎の先、土佐久礼まで高速道路が開通して、窪川の岩本寺までは早くお参りできるようになりました。七子峠への国道をくねくねと上がってしばらく行くと、ユーイン四万十が見えてきます。往路ではいつも休憩(吉野川から2時間近く経っていますので)させていただいています。
おいしい仁井田米で作った「カステラ」の試食をいただき、あつあつの芋天を買って、バスに乗ります。ここからビオス大方までは、一時間かかりません。
道の駅”ビオス大方です。出発前の体操をしていると、どこからともなく、にわとり が出てきました。人懐っこい にわとりで、体操をしている間、離れませんでした。我々が出発する時に、植え込みの中に入って行きましたが、この辺りは野良猫はいないんでしょうか?
歩き始めのビオス大方は浮鞭地区に、公園の施設や観光の案内施設として整備されています。
隣には地域の物産などを販売する“物産館”があります。
海辺も引き潮の時は、縁を歩くと砂が締まって歩きやすいのですが、今日は生憎の満ち潮で上の方まで波が来ています。思い切って海辺に出ましたが、フカフカで歩きにくかったので、「西方浄土」に向かって、皆様と「かたよらない、心」を大声で唱和し、上の道まで上がってきました。
「かたよらない心、とらわれない心、こだわらない心、ひろく ひろ~く、もっとひろ~く、これが
般若心経 空のこころなり」1期2期3期4期の皆様、ここで大声で叫んだのを覚えていますでしょうか?次に海辺を歩くのはお大師さまも歩かれた「大岐浜」です。
砂浜と松林を抜けると道の両側、向こう一面に、この地(大方町)特産のラッキョ畑が広がっています。毎年秋には、かわいい紫色の小花を咲かせ、一面に広がります。収穫期にここを歩くとラッキョの匂いがしますョ。向こうの方に今日の宿、ネストウエストガーデンの円形の建物が見えてきました。
40分行くと海のバザールに着きます。海のバザールは、公園の利用者や観光客の無料休憩所として整備され、食堂もあり隣の入野漁港から仕入れた魚などを提供しています。
休憩所前の海岸では海水浴場が整備され海水浴ができます。
公園を過ぎて、足摺岬左へ、の看板を見、上がっていくと蠣瀬橋があります。通過し15分ほど行くと田ノ浦の漁港です。今日は漁師さん総出?で魚網を大きなクレーンで吊り上げ作業をしていました。何の作業?でしょうか。
田ノ浦漁港を過ぎ、小山を通ってJA幡多に出ます。秋の日のつるべ落としの夕暮れです。さっきまで明るかったのに、薄暗くなってきました。今日はこれからまだ、山越えをしなければなりません。
山ですから、早く暗くなるので心配です。
五時半です。何とか足元の明るい内に竹島池まで降りて来ることが出来ました。ここまで来れば今日の歩き終り、四万十大橋袂の、スリーエフまで30分です。が暗くなってしまいました。
この後、暗くなった田んぼ道を通り、スリーエフに着いたのは6時前でした。周りはすっかり夕闇に沈んでいました。バスでネストまで帰ります。お腹がすきました。
昨日は真っ暗の中着いたので、今朝は少し早く起きて宿の周りを散歩しました。空には雲一つ無く澄み切った青空が広がり、海は朝日にキラキラと輝き、向こうの方には水平線が広がっています。
このホテルは「海にいます」がキャッチフレーズで土佐西南大規模公園の中にあるレストランホテルです。18面の円筒形の建物が特徴です。昨夜は夕食を美味しくいただいて、九時前には寝てしまいました。
ホテル横の公園には、立派な体型をした、「母の塔」がありました。海を見据えています。
あまりの快晴に、今日の歩きは楽しくなりそうです。ホテルをいつもの時間より早く出発して、昨日のスリーエフに着いたのが、7時半でした。体操をして、歩き出しました。すぐ側の四万十川の土手に上がると、四万十大橋が眼前です。四万十大橋は四万十川で一番下流に架かる橋です。欄干のモニュメントはアカメの石像です。
旧道を上がると実崎の四万十川の西水門があります。しばらく行くと初崎に向かう343号の分岐にうどんの「田吾作」があります。目印になるうどん屋さんです。その先に野鳥公園があります。
ホテル横の公園には、立派な体型をした、「母の塔」がありました。海を見据えています。
あまりの快晴に、今日の歩きは楽しくなりそうです。ホテルをいつもの時間より早く出発して、昨日のスリーエフに着いたのが、7時半でした。体操をして、歩き出しました。すぐ側の四万十川の土手に上がると、四万十大橋が眼前です。四万十大橋は四万十川で一番下流に架かる橋です。欄干のモニュメントはアカメの石像です。
旧道を上がると実崎の四万十川の西水門があります。しばらく行くと初崎に向かう343号の分岐にうどんの「田吾作」があります。目印になるうどん屋さんです。その先に野鳥公園があります。
四万十川河口の間崎にある野鳥公園です。水辺の野鳥に出会えます。特に冬は多くの鳥が飛来し、絶好の観察ポイントになるようです。その他にも昆虫、植物、魚類なども観察できます。
オオヨシキリ、セッカ、ホオジロ等をはじめ、野鳥たちの大事な生息場所になっています
また私達が足摺岬に向かう321号(サニーロード)の最初の休憩所にもなっています。
野鳥公園の中を歩いていると十代地山(大の字山)の大文字が見えてきます。
「 大文字の送り火」は毎年旧暦の7月16日に松明を焚いて行われます。
約五百年前、応仁の乱を逃れて中村に下向した、一條教房の息子、房家が教房と祖父兼良の精霊を慰め、京都を懐かしんで始めたと伝えられています。 大文字の送り火は全国で、京都と中村の二箇所だけだそうです。、「一條公ゆかりの火」として大勢の見物客の目を楽しませてくれる中村の夏の風物詩となっています。(火祭りの写真は四万十市のホームページからお借りしました)
朝日を背中に受け、堤防の上を歩きます。321号は足摺に向かう唯一の道路なので、朝早くから通行量が結構あります。津蔵橋の欄干にはトンボと大文字山が彫られていました。
伊豆田トンネル手前にある「今大師」さんです。今回はお参りしませんでした。
伊豆田トンネルを抜けます。トンネルに入ると自然に足が速くなります。20分程で通り抜けました。
道路を下っていくと、ドライブイン水車が見えてきました。が先に真念庵を訪ねるので、手前から「あしずり古道遍路道」に入ります。
狭い階段を上がり、細い急坂を上がります。途中、道を塞ぐ倒木を跨ぎます。

真念庵は、善根宿として、また、金剛福寺から打ち戻る遍路の荷物置き場として利用されました。ここから金剛福寺までは7里(28㌔)あります。
真念さんは金剛福寺までの遍路道に1丁間隔で道標として丁石を350基立てました。これは「足摺遍路道三百五十丁石」と呼ばれています。
現在では道路工事のため、その多くが失われました。
真念さんのお墓は昭和48年(1973)牟礼町(現・高松市)の共同墓地で発見され、同55年(1980)同町内の洲崎時に移されました。85番八栗寺をお参りする時に訪れます。
お堂の前には、明治初期の庵主であった法印実道が四国を巡拝し、浄財を集めて建てた、八十八体の石仏が並んでいます。石仏を刻んだ石は地元民が集落の北にある山から切り出したものです。
宥辧真念
「四国遍路中興の祖」「四国遍路の父」とも呼ばれています、江戸時代初期の高野聖(無名の僧)です。20回以上四国八十八ヶ所を歩き、四国遍路初めてのガイドブックといわれる、「四国邊路道指南」(みちしるべ)を出版しました。またその他にも道中記および霊場記、霊験記を刊行するなど、庶民の四国遍路に功績を残しました。これらの版本により、庶民の四国遍路が定着したとされます。明治時代まで、手軽な遍路のガイドブックとして利用されました。真念はまた四国霊場の資料を高野山の学僧・寂本に提供しました。寂本はこの資料で各札所の縁起をまとめた「四国徧禮霊場記」を出版したのですが、お四国を一度も歩かずに、この本を出版したので有名です
真念庵から7~8分で水車まで帰ってきました。ここまで来れば、後の時間が読めるので一安心です。京都帰着が遅くなりすぎないように。昼食の時間も心配でしたがほぼ予定時間通りです。
水車の前庭にこんな石標が建っていました。右の道標は私達がお世話になっている、別格四番
鯖大師のご住職が、年二回行っている、満足行の方達との道標です。以前、ご住職が歩かれているお姿を21番大龍寺でお見かけしました。御仏のように、光輝いておられました。
市野乃の321号分岐の手前の民家の軒先に九月に行った時、「うり坊」が捕らわれていましたが、今日通ると、檻の中は空でした。どうなったのでしょうか。以前は大きなイノシシや鹿がいましたが?今は数匹のウサギがいました。
下の加江の旧道に入り、小学校を過ぎると下の加江橋を渡ります。
下の加江海岸で小休止して、上の国道に出ます。横の下の加江中が見えます。今回の歩き終わりの久百々まで後40分です。


かつおの看板を過ぎて岬を回り込むと、久百々浜が見えてきます。
久百々橋到着です。12.40分です。今からネストまでバスを走らせ昼食です。1時を回りますが、遅くなり申し訳ありませんでした。その後、窪川の芋ケンピに寄って帰ります。お疲れ様でした。
ありがとうございまます 合掌
オオヨシキリ、セッカ、ホオジロ等をはじめ、野鳥たちの大事な生息場所になっています
また私達が足摺岬に向かう321号(サニーロード)の最初の休憩所にもなっています。
「 大文字の送り火」は毎年旧暦の7月16日に松明を焚いて行われます。
約五百年前、応仁の乱を逃れて中村に下向した、一條教房の息子、房家が教房と祖父兼良の精霊を慰め、京都を懐かしんで始めたと伝えられています。 大文字の送り火は全国で、京都と中村の二箇所だけだそうです。、「一條公ゆかりの火」として大勢の見物客の目を楽しませてくれる中村の夏の風物詩となっています。(火祭りの写真は四万十市のホームページからお借りしました)
朝日を背中に受け、堤防の上を歩きます。321号は足摺に向かう唯一の道路なので、朝早くから通行量が結構あります。津蔵橋の欄干にはトンボと大文字山が彫られていました。
伊豆田トンネル手前にある「今大師」さんです。今回はお参りしませんでした。
伊豆田トンネルを抜けます。トンネルに入ると自然に足が速くなります。20分程で通り抜けました。
道路を下っていくと、ドライブイン水車が見えてきました。が先に真念庵を訪ねるので、手前から「あしずり古道遍路道」に入ります。
狭い階段を上がり、細い急坂を上がります。途中、道を塞ぐ倒木を跨ぎます。
真念庵は、善根宿として、また、金剛福寺から打ち戻る遍路の荷物置き場として利用されました。ここから金剛福寺までは7里(28㌔)あります。
真念さんは金剛福寺までの遍路道に1丁間隔で道標として丁石を350基立てました。これは「足摺遍路道三百五十丁石」と呼ばれています。
現在では道路工事のため、その多くが失われました。
真念さんのお墓は昭和48年(1973)牟礼町(現・高松市)の共同墓地で発見され、同55年(1980)同町内の洲崎時に移されました。85番八栗寺をお参りする時に訪れます。
お堂の前には、明治初期の庵主であった法印実道が四国を巡拝し、浄財を集めて建てた、八十八体の石仏が並んでいます。石仏を刻んだ石は地元民が集落の北にある山から切り出したものです。
宥辧真念
「四国遍路中興の祖」「四国遍路の父」とも呼ばれています、江戸時代初期の高野聖(無名の僧)です。20回以上四国八十八ヶ所を歩き、四国遍路初めてのガイドブックといわれる、「四国邊路道指南」(みちしるべ)を出版しました。またその他にも道中記および霊場記、霊験記を刊行するなど、庶民の四国遍路に功績を残しました。これらの版本により、庶民の四国遍路が定着したとされます。明治時代まで、手軽な遍路のガイドブックとして利用されました。真念はまた四国霊場の資料を高野山の学僧・寂本に提供しました。寂本はこの資料で各札所の縁起をまとめた「四国徧禮霊場記」を出版したのですが、お四国を一度も歩かずに、この本を出版したので有名です
真念庵から7~8分で水車まで帰ってきました。ここまで来れば、後の時間が読めるので一安心です。京都帰着が遅くなりすぎないように。昼食の時間も心配でしたがほぼ予定時間通りです。
水車の前庭にこんな石標が建っていました。右の道標は私達がお世話になっている、別格四番
鯖大師のご住職が、年二回行っている、満足行の方達との道標です。以前、ご住職が歩かれているお姿を21番大龍寺でお見かけしました。御仏のように、光輝いておられました。
市野乃の321号分岐の手前の民家の軒先に九月に行った時、「うり坊」が捕らわれていましたが、今日通ると、檻の中は空でした。どうなったのでしょうか。以前は大きなイノシシや鹿がいましたが?今は数匹のウサギがいました。
下の加江の旧道に入り、小学校を過ぎると下の加江橋を渡ります。
下の加江海岸で小休止して、上の国道に出ます。横の下の加江中が見えます。今回の歩き終わりの久百々まで後40分です。
かつおの看板を過ぎて岬を回り込むと、久百々浜が見えてきます。
久百々橋到着です。12.40分です。今からネストまでバスを走らせ昼食です。1時を回りますが、遅くなり申し訳ありませんでした。その後、窪川の芋ケンピに寄って帰ります。お疲れ様でした。
ありがとうございまます 合掌




