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18日は弥谷寺下、みのパークから歩き始めます。朝出発する時、善通寺駐車場から山を見ると真上に三日月がかかっていました。あまりにきれかったので思わず写真を撮りました。後から見ると、雲が湧き出ていて、ありがたい写真になっっていました。
坂道を登り階段を上がって行くと「俳句茶屋」があります。本堂まで階段は540段ほどあります。
お遍路さんが書き残した俳句の短冊が、部屋の中に無数に張り巡らされていることから「俳句茶屋」と呼ばれています。弥谷寺参拝の休憩所として百年以上の歴史があります。
当初は弥谷寺の関係者が始めた茶屋兼宿坊でしたが、二代目、三代目と茶屋を気に入ったお遍路さんが引き継いできました。引き継いだ二代目の大阪出身の男性が俳句好きだったことが、今の俳句茶屋の原形になっていると言われます。 茶屋の天井や柱からぶら下がる俳句の中には、実際に茶屋を訪れて詠んだ琴平出身の俳人、故・合田丁字路(ごうだちょうじろ)の句 「山の蝶飛んで短し茶屋のれん」。 山の蝶(ちょう)の寿命は短くはかないが、茶屋はこれからもずっと続くという意味が込められています。
俳句茶屋を出て階段を上がるとすぐ仁王門です。、元々俳句茶屋は、ここで死者の霊魂と遺族が食事をして別れるところであったそうです。仁王門をくぐると賽の河原が続き、数知れない石仏が樹々の中にあります。
かんちょう橋です。
階段を上がり「灌頂橋」を渡ると、大きな金剛拳菩薩さまがお迎えしてくれます。十六大菩薩の一尊で、衆生を輪廻の苦から解き放ち、安楽の境界へと結びつけるといわれています。弥谷寺にある金剛拳菩薩像は、元禄年間に住持の覚林が造立したものです。指を堅固に結び合わせておられますが、これは一切如来の誓願が堅固であるということを現しています。その横には真っ直ぐに上がる、赤い108階段があります。108階段を上がると大師堂(獅子の岩屋)、納経所がありますが、本堂はまだ上の方です。鐘楼堂を左に折れて、またまた階段を上がります。
両脇に無数の石仏がある階段を上がりきると本堂があります。
開創の折り、八国寺と名付けられた山頂からは四国を始め備中、備後、安芸など八つの国が眺望できます。本堂から階段を下りてくると、岩壁に阿弥陀三尊像(左、観音菩薩、中央、阿弥陀如来、右、勢至菩薩)が浮き彫りされていて、念仏を唱えると極楽往生が約束されといわれます。
11号に出て5分歩くと、旧道に右折れします。少し行くとバス停があり、バスも空海号です。
出釈迦寺の山門下から山門までは、行く度にきれいに整備されてきています。干支別の守り本尊も新しく奉納されていました。山門もきれいになりました。
本堂欄間には箒の彫刻があります。「槃特と箒」という話で有名すが。昔、お釈迦さまの弟子に周利槃特(しゅりはんどく)という人がいました。彼はたいそうもの憶えが悪く、他の弟子から馬鹿、と蔑(さげす)まれていました。お釈迦さまは彼を憐れに思い、自分のそばに置いて教えられました。すると槃特が言いました。「私はバカですから、せっかくの教えも憶えることができません」これに釈迦さまが答えて言われました。[愚人で自ら愚者と思う人は、智者である。愚人で自ら智者と思う人こそ、愚者である。多くのことを知ろうと思わず、ただ一つのみ学びなさい」お釈迦さまは槃特に帚を持たせて、「塵を払い、垢を除かん」といって、庭を掃くことを命じました。槃特は朝から晩まで飽くことなく、寺の掃除を一心に行いました。或る日、彼は、「これは、心に積もる煩悩の塵を払い、心にこびりつく邪念の垢を除くことだ」と、ついに悟りを開くことができたといいます。その後ますます修行を積み、ついにお釈迦さまの十大弟子の一人になりました。現在でも、お坊さんの世界では、寺院住職の心得に、毎朝の勤行よりも掃除を一番にあげているほどです。
弘法大師が幼少のころの数ある伝説のひとつ「捨身ヶ嶽」縁起があります。それは、弘法大師が“真魚”と呼ばれていた7歳の時。我拝師山に登り「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、現れたまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身をなげました。すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と天女が舞い降り、真魚を抱きとめたといわれます。命を救われ、願いが叶うことを示された真魚は、青年になって我拝師山の山頂で虚空蔵菩薩像を安置し、寺を建てたといいます。この場所は「捨身ヶ嶽禅定」といわれ札所でしたが、今は出釈迦寺の奥の院となっています、境内から急坂を50分ほど上がった場所にあります。大師が虚空蔵求聞持法を唱えたことから、ここで拝むとすばらしい記憶力が得られ、学業成就や物忘れにご利益があるといわれています。弘法大師が身を投じた場所は、さらに100mほど登った場所にあります。捨身ヶ嶽遥拝所が本堂左側を上がった所にあります。捨身ヶ嶽禅定まで登れなくても、ここでご宝号を唱え、祈願すれば同じぐらいのご利益があるといわれます。
この寺の近くで7年余り暮らしていたのが西行法師です。法師はこの寺に通い、本堂前の平らな石の上でよく昼寝をしていたそうで、「西行の昼寝石」と呼ばれ今も同じ場所にあります。また、その横には「笠掛桜」と呼ばれる桜の木も。西行が都に帰る際、同行者が形見にと桜の木に笠をかけたまま出発したのを見て「笠はあり その身はいかになりぬらん あはれはかなき あめが下かな」という歌を詠みました。
四国霊場の少し昔の案内書には、樹齢1200年を超す弘法大師お手植えの「不老松」が紹介されています。高さは4m足らずですが直径が17〜18mもあり、菅笠をふたつ伏せたような姿で県の自然記念物にも指定されていました。しかし、松食い虫に浸食され、平成14年に伐採されました。現在はその笠松と呼ばれていた「不老松」の幹に刻んだ弘法大師座像が鎮座しています。
曼荼羅寺山門を出て、民家の横を抜け
国道に出て、信号から細い道に入り農道に出ます。
農道を行くと甲山寺裏に着きます。曼荼羅寺から約40分で甲山寺です。左側の山門は昔からあるもので、右側の山門は最近新築なりました。この山門の境内側の鬼瓦はウサギです。横の茶堂の棟には穴があいています。
これはご本尊の薬師如来さまの脇持の月光菩薩さまが左手に持つ月輪の中にウサギが描かれていることにちなんでいます。ウサギは境内に向いて据えられています。茶堂の棟の部分には五つの丸が開いた「月見瓦」があります。
本堂と毘沙門天堂。毘沙門天の岩窟は大師が寺院を建立するため、甲山(高さ87メートル)周辺を歩いていたとき、山麓の岩窟から老聖者が現れて「ここが聖地なり、堂塔をこの地に建立するが良い」と告げた。大師は喜びすぐに岩を割って毘沙門天像を造り、岩窟に安置して供養したのが創建と伝えられます。大師堂の左手にある奥行12mほどの岩窟です。大師が彫った毘沙門天像が祀られています。
甲山寺駐車場から橋を渡り堤防を少し歩きます。
善通寺病院の裏にでます。それから少し行くとお大師様が幼少のころ遊ばれた仙遊ヶ原(番外霊場仙遊寺)があります。その手前の交差点左側に讃岐うどんで有名な宮川製麺所があります。
仙遊寺から約10分行くと善通寺到着です。善通寺の正門、南大門から入ります。この門は長い間再建されませんでしたが、日露戦争戦勝記念に再建されました。
山門を入ると正面に金堂(本堂)があります。左側にはお大師様もこの木に登って遊んだと言われる樹齢千二百年の大楠木があり、反対側には五重塔が聳えます。
ご本尊、薬師如来坐像は、元禄年間に造像られた3メートルもある大きな薬師如来様です。胎内にはお大師さまが彫られた小さな仏像が納められています。建物も元禄年間に再建されたものです
広大な境内は、「伽藍」といわれる東院、「誕生院」といわれる西院の東西二院に分かれています。金堂、五重塔などが建ち並ぶ「伽藍」は、創建時以来の寺域であり、御影堂を中心とする「誕生院」は、お大師さまが御誕生された佐伯家の邸宅跡にあたり、ともに弘法大師御誕生所として伝えられています。
御影堂(大師堂)へは、中門から100メートルくらい行くと、はつか橋を渡ります。遍照金剛閣と書かれた正門の仁王門をくぐると廻廊がありその先です。はつか橋のいわれは、昔は二十日にのみ通行できたからだそうです。仁王門の手前には金剛力士像が反対側には大草鞋が奉納されています。手前にある4本の石柱の奉納額の合計は1億9千万円でした御影堂に向かう廻廊にはお大師さまの年譜がわかり易くかかれています。御影堂奥殿はお大師さまの母、玉寄御前の部屋があった所とされていて、お大師さま誕生の聖地とされています。
奥殿には大師が描かれた瞬目(めひき)大師が安置されています。83代土御門(つちみかど)天皇がこの絵をご覧になった時、この尊像が瞬(まばた)いたので瞬目大師の勅号をうけました。御影堂地下は約100米の戒壇巡りができます。また骨格から再現されたお大師さまの声も聞くことが出来ます。
御影堂横にある、「瞬目大師」の謂れに関係する「御影松」と「御影池」です。お大師さまが唐に留学される時、今生の別れになると、母玉寄御前に懇願されました。大師はこの松の木の上に上がり、この池に自身を水面に映し自画像を描き、形見に母君に渡されました。現在は大師とご両親の像が祀られています。
善通寺から金倉寺へは再び東院に戻ってきて、この赤門から出ます。門前町を抜け国道に出ます。
のどかな田んぼ道を行きます。
善通寺ICを過ぎて、しばらく行くと金倉寺が正面に見えてきます。善通寺から55分です。
金倉寺山門と境内にある大楠の木です。金倉寺は智証大師(814~91)誕生の地です。智証大師は十九歳の時に、比叡山で得度し、「円珍」と名のりました。四十歳で唐に渡り六年間旅を続けて帰って来ました。後に延暦寺第五代座主を努め、天台宗寺門派(総本山園城寺)の宗祖となりました。弘法大師の甥にあたります。
本堂左横には「おかるてんさん」の愛称で地元の人に親しまれている、訶梨帝母(鬼子母神)が祀られています。智証大師が5歳の時に訶梨帝母が現れたといわれ、その後、訶利帝母に守られて育った智証大師は、修行を重ね、仏法を広めることに精進できたといわれています。「訶利帝母(かりていも)」(別名「鬼子母神(きしもじん)」)は500人の母でありながら、よその子供をとって食べた罪でお釈迦様に 末子をとられ、子供を失った母の辛さを教えられた後に仏になったとされます。
金倉寺を16.25分に出ました。この時期はとっても夕暮れが早いです。豊原神社を過ぎるころには薄暗くなって来ました。多度津自動車学校の辺りで日が暮れました。
道隆寺駐車場には17..20分に着きました。もう真っ暗でした。そんな中、門前の「サンエイ」さんが我々の到着を待っていてくれ、名物の熱い「眼蘇る茶」をお接待して頂きました。冷えた身体にありがたい、暖かいお接待でした。ありがとうございます。
今回も多人数の歩きでしたが、皆様方のご協力で無事終わることが出来ました。
この後、22~23日と2期の皆様と石手寺から今治西消防署まで歩いて、今年の歩きが終了しました。今年もお大師さまに見守られて、廻りの人々のご協力で無事、全日程をおえることが出来ました。ありがとうございます。
12月27日、久しぶりに車で高知に行って来ました。28番大日寺の納経所入り口にはもう門松が飾られていました。7月からブログ始めましたが、お付き合いありがとうございました。来年も宜しくお願いいたします。良いお年をお迎え下さい。
ありがとうございます 合掌


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